言葉遊びでしかないんじゃ

気づいた。
楽観的の対象は「死ぬこと」であって「病気」そのものでない。
「今ここで死ぬのも それはそれで意味のあることだし
まあいいんじゃないの」と思うんだが
それはあまり実感的じゃないのかも 知れない。


考えてみれば 病気そのものに関しては まだほとんど分かっていない。
町医者で内視鏡などの検査をして結果悪いもの(医者曰く)が見つかって
紹介状を受け取っただけなのである。
すごく長い時間を病気と過ごした気分になっているが
この町医者の受診からさえ一か月経っていない。


これから検査して方針決めて治療に入るわけで
治療内容も分かっていない。
このご時世ネットでいくらでも調べられるのだろうが やらない。
そもそも最初の「自覚症状」が全くあてにならなかったのである。
中途半端に知るより何も知らない方がいい。良いことも悪いことも。


今は知る必要のないことだけれど
死ぬとしても それは治療の向こうにあるもので
その手前にある闘病への覚悟は まったくない のであると気づいたわけだ。
だから楽観も悲観も湧くわけがない。


悩んだり足掻くのが面倒で飛び越えて「死」を考えてるんだ きっと。


そんなことを考えていたら 戦時中の兵士たちの自決行為が浮かんできた。
死にたくはなかっただろうと思う一方で
一度それを受け容れてしまうと 今度は生き続ける方が苦しくなる
てなことはないだろうか。


死は 逃れようのない現実ではあるが
思念である間は「非日常」である。
その非日常から日常に戻る時は 幸福であると言い切れるのだろうか。



や。やっぱり実感も覚悟もないわ 私。
この先怖いわ。