一分の一

正月期間に
管制官か機長か
てな話になった。家人と息子とそれぞれ相手に。


息子と家人はどちらも「機長」と言った。
私は「管制塔や」と言った。


早々に「交信記録に離陸許可の事実はない」と公表した。
その態度が気に入らなかった。いかにも
うちには責任ないかんね!という言い方が。


着陸する機があると分かっていて
その機との交信直後に、離陸機に移動の指示を出しているのも
気に入らない。
着陸機の着陸を見届けてからでもいいんじゃない?
着陸した後、滑走路から完全に離れるまでの間に
離陸機を停止線まで移動させれば時間ロスはない(筈だ)。


操縦士だって人間だもの。万が一のブレーキの踏み間違え
(とは言わんだろうが)がないとは言い切れない。
動いていなければ間違いもおきない。


管制塔からは、航空機だって玩具の大きさだろう。
でもその中には人がいる。6人だろうと400人だろうと。
なのに。


管制官は盤上のコマを動かすように機を移動させてる。
そんな印象だ。


毎日毎日毎時間。飛行機は飛び続ける。
管制官にとっては何千の一なんだろうが
飛行機に乗る私にとっては「一分の一」。
初めて乗る人も生涯のイベントとして乗る人もいるだろう。
それを管制官はゲーム盤のコマのように見下ろす。


そう考えると、勝手な想像に過ぎないのだけれど
だんだん腹が立って来たのであった。
「誰が悪いとか追及しても仕方ないけど」



一分の一。これは医師と患者の間にも言えること。


販売員と客の間にも言えること。
バイトでハンドバッグを売っていた。
毎日毎時間ハンドバッグは売れていく。
自分のために誰かのために買っていく。
私にとっての日常だけれど
お客様にとってはちょっとした「ハレ」である。


一分の一の想像力がなければ
ちゃんとした仕事はできないと思う。


管制官が云々は、想像でしかないけれど。