私のものじゃない

友人からメールが届く。
お花見のお誘いか?
療法のことは知らせていない。どうしよう。


花は咲いたが、祭りは中止。屋台は出ない。
彼女の自宅は忙しさにかまけて荒れ放題だと言う。
てことは「来るな」ということかな。じゃあ気が楽だ。
「私も体調が不安定だから」と送り返す。


と安心していたら、レストランなら予約できると言う。


家人に送迎して貰えば…と一瞬過ったが、
行きたいのか?と思う。別に行きたくない。
桜も見たくないし、友人と話したいわけでもない。
(独身の友人との会話は話題に気を遣うため疲れる)


コロナ前に招かれて花見に行った。もうひとりの友人と。
彼女らは夢中で写真を撮っていたけれど、私は10分で飽きた。
屋台が目当てだっただけだ。


今、マンション近くの川沿いで桜が開きつつある。
毎日様子を見に行く。桜なんて興味ないんじゃなかった?


ああ。そうか。私は咲きゆく過程を見たいのだ。
見守って「私のもの」にしたいのだ。
この桜の満開ならば心から愛でられる。


自分の領域に引き入れなければ満足できない。


料理がそうだ。レシピを見てもそのとおりには作らない。
材料の一覧を見て、「家にあるもの」「簡単に入手できて使えるもの」で
頭の中で味を探りながら作る。


だって「レシピどおりに作って美味しく出来ても 私の料理じゃないじゃん」。
労力だけ払って、賞賛はレシピを作った人のものじゃん。


服もそう。洋裁をきちんと習ったことないくせに、
自分で描いたデザイン画から型紙をおこし、手探りで縫っていく。
スタイルブックから型紙をとって作っても、
それは私のオリジナルじゃない。私の作品じゃない。
どうして他人のデザインを形にするために私が働かなきゃならないだ。


桜もな。誰のものでもない桜だけれど、それは友人の領域にある。
そこまでわざわざ行って(労力と交通費を払って!)、
「きれいね」と褒めて、満足するのは私じゃない。


……もしかして私ってひねくれてるのか?