姉と父

スプライトが飲みたいと姉は言った。


智恵子抄じゃないけれど、死の床で。


枕元に父がいた。
父は言った。「うわごとだ」
深夜。
病室のある病棟から、自販機のある外来まで遠い。
暗く長い通路を通り抜けなければならない。


スプライトが飲みたい。


一口でも。
看病する者が繰り返し思うことだ。
一口でも食べられるなら、飲めるなら。


でも父は動かなかった。「うわごとだ」


私が行こうと立ち上がった。
しかしそれでは意味がないのだった。
姉は言った。「もう いい」


姉は父に行って欲しかったのだ。
父に愛されていると思って、死にたかったのだ。


ばかだなあ……


一晩でいい、付き添って欲しいと言った夜もあった。
渋る父を、私たちも病室にいるからと説き伏せた。
父は言った。「どうなっても知らんからな!」
そして雑誌を広げ、脚を組んで揺らした。
耳障りな、ページを繰る音。点滴の管に当たる脚。
ソファベッドに横たわり、苛立ちと怒りと悲しみと闘う。
「これが姉の願ったことなんだ」と自分に言い聞かせる。
「どうなろうと 彼女が望んだことなんだ」


ばかだなあ。
なんで親の愛なんて欲しがるんだろう。


姉は私より聡明で大人で自立して。
もう親なんて必要じゃないのに。
他の人からたくさんの信頼と称賛を貰って、
親からの肯定なんて必要じゃないのに。



姉が私を嫌った理由のひとつが
母が彼女に「お父さんは〇子(私)が可愛いんだよ」と
吹き込み続けたことだ。
勿論私だって愛されていたわけじゃない。


空想の世界で生きていたから、愛されなくても幸せだっただけだ。
でも姉の目には、親に愛された無邪気な子どもに映っていたんだろう。


ちゃんと会話していれば、理解し合えたかも知れない。
しかし母から「お姉ちゃんはあんたが嫌いなんだよ」と言われた私は、
姉に近づくことが出来なかった。
幼い頃の私は、姉を尊敬し慕っていたのに、
拒絶されるうちに、姉も、いてもいなくていい存在になってしまった。


姉が死ぬと分かっても、私は哀しくなかった。
ただ彼女が彼女を喪わなくてはならないことが哀れでならなかった。
彼女は父親の中に何かを刻むことで生きた証にしたかったのだろうか?


ばかだなあ。