悪しき時

善き時悪しき時 って小説がありました。
友人の友人に借りて読んだ。40年前に。


それとはまったく関係ないんだけれど
前記事の続きで。
「人生で一番不幸だった時」「辛かった時」


これがなかなか思いつかない。
辛い時がなかったわけがないんだが
結局乗り越えたり解決したりして今がある
ということで「ま いいか」になってしまうのか。


自分でも不思議なのは
出口が見えなくてしんどかったと思われる時
日記に「幸せなんだか不幸なんだか分からない」と
書きつけていたことだ。


それ以外にも日記など読み返していると
「私 頑張った」「今なら絶対できねえ」「なんで平気だったの?」
てなことがよくある。


波にもまれている時は泳ぎ切ることに精一杯で
不運を「感じて」いる暇もないのかもしれない。
波を見ていて「きたら困るな」とおびえている時が一番不幸なのかも。


波が去った後は安堵や解放感でむしろ幸福なわけだし。


タイトル忘れたが、まくらんが出てくる漫画で
「悪夢から覚めた時 ああ夢でよかったと安心するだろ」
と悪夢の別の効用を並べる箇所があった。
それに似ている。


ああ。一番辛かったのは不妊期か。
自力ではどうしようもない。でも努力しないわけにはいかない。
毎月毎月落胆に襲われる。落胆の後には生理痛という苦痛もやってくる。
肉体的にも精神的にもしんどいし、期間も長い。
この苦労だけは忘れられないかもなあ。二度と経験したくない。

善き時

「一番幸せな日っていつだったんだろう」


一番ふわふわしていた時期は覚えている。
試行錯誤の末開設したホームページが軌道にのった頃。
今みたいに気軽に発信できるわけじゃなく
知識と技術がなければホームページを作成するにも
ソフトを買うなりしなければならなかった。
だが完全な道楽である。専業主婦である。


ワードでweb文書が作れるらしい。
無料でFTPソフトが入手できるらしい。
それだけを手掛かりに
そして何度も頓挫しながら、開設に至った。
webリングにも登録し閲覧者も増えていった。
その上昇期に気分も上昇を続け、日常の問題も忘れて
ふわふわ雲の上で過ごした。


あの一か月(絶頂期はそんなもんだ)が人生で一番
しあわせな時だったなあということは
これまでも何度も思ったことである。


今回は「幸せだった日」である。ピンポイントである。
思いついたのは
「母親が死んで相続手続きが終わった日」であった。


葬儀もひと悶着あったが、相続手続きも憂鬱の連続だった。
隠し子がいてくれたらなあと真剣に考えたほどである。


一番の難所の証券会社に最後の書類を提出した日のこと。
ばんざいと叫びたいほどの解放感だった。


と考えていて
「自分の出産や 孫の誕生じゃないのかい」と自分で突っ込んだ。
新婚の時でも子どものハレの日でもない。


私は、始まりよりも、穏やかな終焉が好きなんだな。
始まりは、いくらそれが晴れやかでも、いつか陰る。


人生で一番つらかった日、つらかった日々はいつかな?

カランコエ変容と買い物依存症

せっかくの陽気なのに鉢たちは家の中である。
黄砂のせいである。葉っぱにつくのが嫌なのである。
我が家のコたちは過保護である。
カランコエすらも出したり入れたり。
そのカランコエ。二巡目の花が咲いた。なんだこれは。

右上にあるようなつぼみがついていて
つぼみがくっついているのかと思ったら、そうではなく
これ自体がつぼみで、それが開いたのであった。
冬の最初に咲いていた花は左上のような形だった。
カランコエ。(意外と)奥が深い。



急に暖かくなってクローゼットの整理をしていて
思う。
着たいと思って買った服と
買うことで満足を得た服があるなあと。


買い物依存症というのがあるけど
これが高じるとそうなるのかな?


私のは、不足の経験からくる
「買える時に買っておかないと」てな部分が大きい。
それに
過去の自分を慰める気持ちが加わって
買える自分を褒めるようなところもある。


母親の「お買物券」を手に父親のものを買いに行って
スコッチハウスのジャケットに一目ぼれして
迷わず「これください」と言った時の快感。
あれを思うと買い物依存症の気分も分からんでもない。


箪笥の引き出しに
中学生の娘に1000円で買ってやって
大学入学時に「もう着ないからあげる」とくれた服がある。
毎年着ていた。型崩れもせず色褪せもしない。
今年は着なかった。でも捨てられない。

植替えとジュエリーリフォーム

いきなり春になった。
春になったら植替えと思っていたが
改めて調べてみると、もう少し待った方がいい品種もある。


とりあえず
ねむの木の苔部分を完全に外して土に埋めた。

本当は幹を短く切ってからやりたかったが
葉っぱが残っていたのでそのまま移動した。


アデニウムの葉っぱが黄色い。日照不足かと思ったが
鉢の底を見たら根っこが見えていた。
まだ一年も経ってないぞ。そんなに大きくなってないぞ。
でも根づまりで葉が枯れるなら早急に植え替えねば!
一回り大きい鉢が家にはないから買いに行かねば!


買いに行ったからといって望み通りの品があるとは限らず。

大は小を兼ねる。これで2年は植え替えなくてもいいだろう。



金の分割の依頼先から電話があった。完了とのことだった。
予定より早い。
一本だけ売ろうと思っていたが、まだ相談してない。
家人と娘に確認してから電話を折り返すことにした。


ついでに娘の真珠のネックレスの修理を頼もう。
でもって
私の婚約指輪をネックレスにリフォームしてもらおう。
思いっきりカジュアルに。そして普段使いにするんだ。


とはいえリフォーム代もただじゃない。


片づけをしていたら、売ったと思った金の装飾品が出てきた。
これと
娘にやろうと思っていた金とプラチナのアクセを売ろう。


どんなデザインにしてもらおうかなと
商品を検索したものだから
現在あちこちジュエリーの広告だらけである。


しかしなんだね 芸がないね。
似たり寄ったりのデザインばかりで面白くない。
自分で素案を作っておくかな。


なんて考えていて
「私 今 経過観察中なんだよな」と思う。
思うのである。私だって。

男は「いっちばーん」が好き?

娘と子どもたちと家人とで親子カフェに行く予定だった。
私は「面倒くさい」と断った。


実際に面倒くさい。子どもと外出するのは好きではない。
屋外ならまだしも買い物とか食事とか億劫である。
それでも「行くべきか」という気持ちはあったが


このところ子どもたちは私寄りである。
もともと(手術以前)まご女はその傾向にあったが
姉に遠慮していたまご男までが私に執着するようになった。


これが逆の立場なら(伴侶の方にまごたちが行ってくれて)
ああ楽でいいわ なのだが
家人は違う。すねるのである。ひがむのである。おもしろくないのである。


だからして
私がいなくてもいい場面であるなら、いなくてもいいんじゃないの。
私がいなければ子どもたちは家人と遊ぶだろう。
家人もまたスマホを置いて、子どもたちに集中するだろう。
だからして
無理してまで同行しなくてもいい。


さあ 私は何を食べよう。散歩にも行こう。桜はどうなってる?


と浮かれていたら、予約がとれなかったようで。
お昼をあてにしていた娘もがっかりなら、子どもたちも退屈だろう。


そしてここに一枚今月末が使用期限のたこやきう優待券がある。
次の分の優待券も来ている。
「たこやき買って 娘宅に届けて 昼寝まで遊んでくるかね?」
家人に訊いたら「うん」。娘に確認したら「うん」。


前に書いたかな?
私は、そこのたこ焼きを食べた直後に胃痛をおこし
イレウスで入院した。
たこ焼きのせいじゃないのだが、たこ焼きの味が記憶を蘇らせるのか
その後一度食べたが、不味かったのである。
だから私は食べたくない。(株も一部売った。優待券を使いきれない)


だから予定通り
家人だけが娘たちとお昼を過ごす。
私は散歩してお昼は好きなものを食べる。
ってもいつも好きなものを食べているんだけどね(笑)。



それにしても男って自分が一番でいたいものなのかな。
孫相手に限らず交友関係でもさあ。
家人の知人で
「自分に一番に連絡がこなかったのがショックだった」と言ったり
別の知人も
当然自分に相談があるものと思っていたことが
そうなかったことに拗ねたり
ええトシこいたおっさんたちが「何言ってるんだ」なんだが
男ってそういうもんなのかね。それと爺さんだからかね。